歴史ブログ 第19回:豊臣秀吉の天下統一と兵農分離(守山の塾より)

query_builder 2025/07/07
歴史ブログ 第19回:豊臣秀吉の天下統一と兵農分離(守山の塾より)

➀ 豊臣秀吉 は、農民の出身から天下を取った戦国一の出世人です。もとは➁ 織田信長 に仕えて活躍していましたが、➂ 本能寺の変 で信長が倒れると、山崎の戦いで④明智光秀を破り、すぐに織田家中で力を持ち始めました。

その後、信長の後継をめぐって開かれた➄ 清須会議で、信長の三男・信孝や次男の信雄(のぶかつ)との間で緊張が生まれます。信孝を推した⑥柴田勝家を➆賤ヶ岳の戦いで破り、1584年には⑧徳川家康と織田信雄連合軍と⑨小牧・長久手で戦い、決着はつきませんでしたが、秀吉はその後、信雄と和解。家康とも講和を結んで対立を避けます。

次に、四国の長宗我部氏を服従させ、さらに九州の島津氏を降伏させることで勢力を西へと拡大します。⑩ 1590年、小田原の北条氏を滅ぼし、全国の大名を支配下に置くことに成功し、⑪天下統一。戦国時代が終わりました。

また、秀吉は土地制度にも変革を起こします。これを⑫ 太閤検地(たいこうけんち) と言います。これは全国の田畑を測り、⑬ 石高(こくだか)という単位で土地の価値を決める制度です。収穫量に応じて年貢を取り、税を安定させる狙いがありました。

検地の次に出されたのが⑭ **刀狩令(かたながりれい)**です。農民から武器を取り上げ、 武士と農民をはっきり区別する⑮兵農分離 を実現しました。これにより、農民の一揆を防ぎ、平和な社会づくりが進んだのです。

秀吉は日本の外にも目を向けました。1592年、朝鮮へ出兵(⑯文禄の役) を行い、中国を目指そうとします。しかし戦いは長引き、1597年には再び出兵(⑰慶長の役) も行われましたが、成果は上がりませんでした。

結局、朝鮮出兵は大きな負担だけが残る結果となり、豊臣家の力が衰えただけでした。⑱1598年に秀吉が亡くなると、豊臣政権には不安が広がりました。

その中で、次の時代を作ったのは⑲ 徳川家康 です。秀吉の死後、家康は勢力を伸ばし、やがて⑳ 関ヶ原の戦いを経て天下を握ることになるのです。



練習問題


➀(     )は、農民の出身から天下を取った戦国一の出世人です。もとは➁(     )に仕えて活躍していましたが、➂(     )で信長が倒れると、山崎の戦いで④(     )を破り、すぐに織田家中で力を持ち始めました。
その後、信長の後継をめぐって開かれた➄(     )で、信長の三男・信孝や次男の信雄(のぶかつ)との間で緊張が生まれます。信孝を推した⑥(     )を➆(     )で破り、1584年には⑧(     )と織田信雄連合軍と⑨(     )で戦い、決着はつきませんでしたが、秀吉はその後、信雄と和解。家康とも講和を結んで対立を避けます。
次に、四国の長宗我部氏を服従させ、さらに九州の島津氏を降伏させることで勢力を西へと拡大します。⑩(     )、小田原の北条氏を滅ぼし、全国の大名を支配下に置くことに成功し、⑪(     )。戦国時代が終わりました。
また、秀吉は土地制度にも変革を起こします。これを⑫(     )と言います。これは全国の田畑を測り、⑬(     )という単位で土地の価値を決める制度です。収穫量に応じて年貢を取り、税を安定させる狙いがありました。
検地の次に出されたのが⑭(     )です。農民から武器を取り上げ、 武士と農民をはっきり区別する⑮(     )を実現しました。これにより、農民の一揆を防ぎ、平和な社会づくりが進んだのです。
秀吉は日本の外にも目を向けました。1592年、朝鮮へ出兵(⑯(     ))を行い、中国を目指そうとします。しかし戦いは長引き、1597年には再び出兵(⑰(     ))も行われましたが、成果は上がりませんでした。
結局、朝鮮出兵は大きな負担だけが残る結果となり、豊臣家の力が衰えただけでした。⑱(     )に秀吉が亡くなると、豊臣政権には不安が広がりました。
その中で、次の時代を作ったのは⑲(     )です。秀吉の死後、家康は勢力を伸ばし、やがて⑳(     )を経て天下を握ることになるのです。


----------------------------------------------------------------------

バーサット 守山校

住所:愛知県名古屋市守山区大谷町14-6

電話番号:052-791-3885

----------------------------------------------------------------------